筆者が勝手に選ぶ、ホエールズ、ベイスターズ記憶に残る名選手です。
カルロス・ポンセ
私が知る限り、ベイスターズ、ホエールズ史上最高の助っ人でした。いや、最高の選手でした。とにかくチャンスに強い。惜しむらくは彼が在籍しているにも関わらずマイヤーを獲得してしまったこと。(マイヤーも決して悪い選手ではありませんでした。むしろ良い選手だったと思っています。念のため)
このためホエールズ在籍最後の年、ポンセの出番は少なくなり、時々出場してもあまり活躍できなくなってしまいました。
いまでもファンファーレと「バモス、ポンセ」の応援マーチの中で打席に入るポンセと、ホームランを打ったあとの大声援の中で加藤博一とじゃれあう笑顔が目に浮かびます。
田代富雄
ホエールズ/ベイスターズの近世では、多分唯一の和製大砲です。1997年シーズンからはファームの打撃コーチに就任しました。田代の引退前の最終打席、横浜スタジアムのスタンドで見ていました。1991年10月10日対タイガースダブルヘッダーの2試合目です。
3回裏、二死走者二人を置いた場面で高木豊がフォアボールで一塁に歩き、最高の場面で「四番サード田代」の打席を迎えました。実は、私は心の中では高木でこの回の攻撃を終えて、次の回の先頭打者として楽な気持ちで打席に入って欲しいと思っていたのです。
そして二死満塁の打席で田代の放った打球はスタンドの大歓声の中、レフトスタンドに突き刺さりました。やったー!!!!! 私も気がついたら立ち上がって拍手していました。ホームインした田代が涙を流しているのが横浜スタジアムのスコアボードの画面に映し出されたときには、私も思わず涙がボロボロ出てきてしまいました。スタンドには田代の奥様もいらっしゃっていたようです。まわりの観客から祝福の言葉をかけてもらっていました。野球を見ていて泣いてしまったのは、このときがはじめてです。続く宮里が簡単に凡退後、次の回、「田代コール」のなかサードの守備についた直後、大野(翌年ジャイアンツに移籍、現スワローズ)に交代して退きました。
考えて見ればこのシーズンで田代の打ったヒットはこの満塁ホームラン一本のみでした。まさに「奇跡の満塁弾(日刊スポーツの見出し)」でした。
この前年には加藤博一が、この翌年には遠藤が、その翌年には斉藤明夫が、と次々に大洋ホエールズの一時代を作った(って程ではないが)人たちが引退し、時代の変化を感じていた時期でした。
グレン・ブラッグス
いまさら説明の必要もない、横浜ベイスターズの1992年~1996年の四番打者。ライナーでスタンドに突き刺さる打球の鋭さももちろんですが、この人の守備力は目立ちませんがすごかったのです。どんなに大敗した試合でも集中力が切れない好守備を何度も見せてもらいました。
残念ながら1996年は故障のため不本意な成績に終わり、解雇という結果になってしまいましたが、1997年からは米国で再びユニフォームを着ることになるようです。いつの日かまたあの鋭い打球で「スタンド遥か越えてホームラン」を見られる日が来ることを願っています。ファイト! ブラッグス!
ここから1997.06.29追記。今年はどこのチームにも所属していないとのこと。膝の故障が完治していないようです。トレーニングは継続して現役復帰を目指しているようです。がんばれ、ブラッグス。
遠藤一彦
ホエールズのエース。当時日本一の投手だったと確信しています。もちろん江川以上です。
ジャイアンツ戦で好投していた試合、走塁中にまさかのアキレス腱断裂。これがなかったら、味方に恵まれていたら、キャッチャーに恵まれていたら.....間違いなく200勝していたでしょう。
その後、須藤監督の時代にリリーフエースとして復活。このときの遠藤が登場してくるときの歓声は、佐々木の時の歓声に負けなかったと思います。
片平晋作
南海ホークス→西武ライオンズ→横浜大洋ホエールズと渡り歩いた一本足打法の選手。王(現福岡ダイエーホークス監督)のファンだったとか。現在はライオンズの二軍監督。ホエールズ時代はしぶとい打撃でチャンスに強かった。ここというチャンスでの二塁打を何度も見たような気がします。何故か好きだった選手のうちの一人。
1997.11.16追記。二軍監督から1998年シーズンは西武ライオンズ球団フロントに転身。グラウンドで姿が見られないのは寂しいね。
加藤博一
ライオンズ→タイガース→ホエールズ。スーパーカートリオの一人。後に代打の切り札として活躍。なにより明るいキャラクターが好きでした。
2004年プロ野球OBオールスターゲームで、レフトを守る加藤さんに「横浜大洋44番ユニフォーム」を手にして声をかけたところ、「これ、本物じゃん」「ウチにも無いよ」とありがたいお言葉をいただきました。しっかり我々の方にボールを投げ入れていただいたのですが、頭の上を通り越して他の人にとられてしまいました。残念。明るいキャラクターはそのまま。これからもいろいろな方面で活躍してください。
2008.12追記: 残念ながら2008年1月、肺がんにより死去。一報を聞いたときには言葉を失いました。4月21日のYB-T戦で追悼試合。蒲田行進曲の応援歌のなか石井琢朗が追悼の一打を放ったのが印象的。ご冥福をお祈りします。
屋鋪要
この人もスーパーカートリオの一人。センター守備の達人。華麗な守備でした。フェンス際の打球に追いついてしまう足を持つ屋鋪ならではの守備を何度も見せていただきました。
大量解雇事件でベイスターズを去った後は、ジャイアンツで守備固めとして活躍。日本シリーズの舞台を踏む快挙もなしとげました。ベイスターズにずーっといたら、絶対に踏めなかった舞台でした。
1997年シーズンはTVK(テレビ神奈川)のベイスターズ関連の番組にレギュラー出演したりして、ベイスターズとの和解も間近かと思っていたら、1998年シーズンから読売巨人軍の外野守備走塁コーチに就任が決定。コーチとしての技量はどうなのでしょうね。